河口湖大石村字戸沢にて、桑畑を村民が営む。
河口湖大石村字戸沢に、島津公爵避暑別荘が作られる。
別荘初代管理人鎌倉宗作(現夢見る河口湖コテージ戸沢センター店主の曽祖父)。
島津公爵避暑を祝い、河口湖の各村長が集い、灯篭流しなどが行われる。(8月5日河口湖湖上祭の始まり)
ドイツ公使が島津公爵別荘を疎開場所として利用する。
当時の別荘管理人は2代目鎌倉伴作(現夢見る河口湖コテージ戸沢センター店主の祖父)。
農地解放令により、島津公爵別荘の敷地一部を鎌倉伴作が購入する。
大石村・河口村・船津村・小立村が合併し、河口湖町となる。
鎌倉啓介(現「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」店主の父)が、キャンプ場を創業。
御坂山塊戸沢山並びに字名「戸沢」にちなみ、「戸沢キャンプ場」と名づける。
この年、西湖根場村にて山崩れ災害が発生する。
現「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」店主誕生。
レンタルボート業(釣舟業)をこの頃開始。
報知新聞特約店となり、時世に乗り、店名を世に広げる。
民宿開業。「戸沢キャンプ場」のセンターハウスであることから、「戸沢センター」と名付ける。
昭和60年頃、バンガロー
バンガローの一部を貸別荘(コテージ)に建て替える。
この頃、河口湖町河口地域から大石地域へ繋がる湖畔道路(湖北ビューライン)が整備される。河口湖自然生活館などの河口湖町観光施設が充実する。
法人「戸沢センター有限会社」設立。バンガローのほとんどを貸別荘(コテージ)に建て替える。
平成9年頃
河口湖町・勝山村・足和田村が合併し、富士河口湖町となる。
「民宿戸沢センター」を貸別荘(コテージ)に建て替える。
この頃から屋号を「コテージ戸沢センター」とする。
現「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」店主婚姻。
屋号を「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」とする。釣舟業を実質廃業する。
現「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」店主へ代表取締役を代替わりする。
「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」の場所は、大正時代は、九州の島津公爵の別荘でした。鎌倉伴作(現店主の先々代。祖父)はその別荘番をしていました。8月5日の河口湖湖上祭は、大正時代に島津公爵が別荘へ来るのを祝って灯篭流しをしたのが始まりだそうです。
戦後1947年に「農地解放」という政策があり、島津公爵別荘地の一部を鎌倉伴作が買いました。
その後、ブドウ園を半分、桑畑を半分の農家をしていたそうです。桑はオカイコサンのエサとして育てていました。1950年代ごろは富士吉田市を中心にオカイコサンの糸での製糸業が盛んでした。大石でもオカイコサンを育てている家はたくさんありました。「大石紬伝統工芸館」には当時の資料があると思います。
1960年代には東京などから河口湖へ観光に来る人が増えていて、今「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」がある場所にも、観光客の人がよく立ち止まって富士山を眺めていました。鎌倉啓介(先代。現店主の父)は「こんなに人が来るのだから、商売を始めたいな」と考え、当時結婚したばかりの妻(現店主の母)に相談しました。
できるだけお金をかけないで、経験がなくてもできそうな商売は何だろう、と二人で考え、「キャンプ場ならできそうじゃないか?」という結論になり、1966年からキャンプ場を始めました。最初の屋号(店の名前)は「戸沢キャンプ場」です。「戸沢」というのは、戸沢センターがあるあたりの地名です。戸沢センターの裏にある山は「戸沢山」といいます。
最初の年はテントサイトだけで開始し、翌年からバンガローも建てました。「バンガロー」というのはキャンプ場にある小屋みたいな建物です。大雑把に言うと木造のテントみたいな建物です。
1960年頃までは河口湖にはキャンプ場がたくさんあったようです。キャンプ場で資金が溜まった施設はホテルに建て替えすることがあったようです。たまたま、船津の「ホテル美富士園」さんがキャンプ場をやめてホテルにする、という話を鎌倉啓介が聞き、「潰す予定のバンガローがほしい」と「ホテル美富士園」の社長さんにお願いし、バンガローを安くもらうことができました。
バンガローは安くもらえたのですが、移動して建てるのは、鎌倉啓介が基本的に自分の力でやりました。建てるための基礎のセメントを作る砂を運ぶ作業などでは鎌倉啓介のお姉さんたちにも手伝ってもらいました。
眺めの良い場所でキャンプ場を始めたので、思っていた以上に夏はお客さんが来たと聞いています。キャンプ場にお客さんが来るのはその頃は1年のうち1か月程度ですので、冬の間は鎌倉啓介は土建屋さんの手伝いのアルバイトをしたり、啓介の妻は富士急ハイランドのアルバイトをしたりしていたそうです。
キャンプ場を始めてから3年目、1969年からは、貸しボート屋さんを始めました。当時の河口湖は秋から冬にかけてワカサギがよく釣れたので、貸しボート屋さんも河口湖にたくさんありました。河口の「ボートハウスハワイ」はその頃から貸しボート屋さんをしています。
当時ワカサギ釣りは人気がありました。「報知新聞」というスポーツ新聞の契約店になることができました。スポーツ新聞に「河口湖では今日は××匹、戸沢センターでワカサギが釣れた」という欄があり、掲載されました。そのため貸しボートも人気がありました。最終的には100隻くらいまで貸しボートを増やしたようです。今は戸沢センターでは貸しボート屋さんはやっていません。
この頃、民宿ブームというのがありました。大石でも民宿を開業する家が何件かありました。民宿というのは「旅館っぽい感じで家族が営業しています。旅館ほどは施設がしっかりしていないけど、そのぶん料金は安いです」という感じの宿泊施設です。大石周辺の場合、昔、行商人をしていた家で民宿を始めるケースが多かったと聞きます。
キャンプ場では夏しかお客さんを泊めることができないので、他の季節にも宿泊客を取りたいと考え、1971年から民宿を始めました。「戸沢センター」という屋号(店名)はこの時、鎌倉啓介と啓介の妻がつけました。「戸沢キャンプ場のセンターハウス」という意味です。この頃、バンガローもプレハブのものに建て替えました。
民宿は朝食夕食を用意する必要があります。最初の年はプロの板前さんを雇ったそうですが、2年目くらいから、啓介の妻が自分でお客さんに出す料理を作るようになりました。
ここから20年間くらいが「戸沢センター」が一番忙しくてキツイ時期でした。貸しボートは朝5時くらいから始めないといけない。民宿の宿泊客には朝8時には朝食を出さないといけない。食堂も土産物屋さんもしていたのでお客さんが朝から夜まで来ます。民宿の次のお客さんが来るまでに部屋の掃除をしないといけない。バンガローのお客さんには別料金で布団を貸していましたので布団貸し出し作業もしないといけない。帰ってきた貸しボートを引き上げ、ボートのオールを片づけしなくてはいけない。お客さんのお風呂の準備をしないといけない。夕食を作り配膳しなければならない。お客さんの夕食が終わった後は食器洗いをしなくてはいけない。当時小学生の家族全員でやっていました。人手が足りないので、鎌倉啓介のお姉さんたちや、村の親しいおばあさんがよく手伝いに来てくれました。
この頃は民宿は最大収容100人、バンガロー最大収容120人、さらにテントサイト最大収容100人、貸しボート100隻。敷地の広さは今とだいたい同じですから、詰め込み過ぎです。(現在の最大収容はコロナ禍前でコテージ100人、テントサイト24人です。コロナ禍以降はコテージの最大収容数を70人程に減らしています)
1980年頃ペンションブームがあり、大石にプチペンション村ができたのもその頃です。ペンションというのは「家族で経営するホテルっぽい小規模な施設」のことです。民宿の洋風バージョンです。大石以外の山梨県だと清里にペンション村ができて有名になったのがこの頃です。
1990年頃、小佐野町長の改革で、河口湖美術館のあたりと大石をつなぐ現在の「もみじ街道」が通り、自然生活館が建てられ、大石公園が整備されました。ハーブまつりや紅葉まつりもこの頃始まりました。この頃までは、河口湖は観光地としては垢抜けない雰囲気で、船津地区以外は観光地として整備されてなかったのですが、この時の改革で、「一年中富士河口湖(西湖・精進湖・本栖湖・朝霧高原なども含む)のどこかで何かイベントをしている観光地」になりました。
「戸沢センター」は1992年にバンガローの一部をコテージ(貸別荘)に建て直しました。その後、現店主が一流の設計士を探し、1997年にバンガローの半分以上をコテージに建て替えました。2005年に民宿の建物を、現在のコテージに全て建て替えました。
民宿からコテージに営業形態を変えたことで、仕事内容はずいぶんと軽減しました。
民宿時代から、「すごく良い場所にある宿泊施設だけど店名がピンと来ない」とお客さんから言われていたので2016年から屋号(店名)を「夢見る河口湖コテージ戸沢センター」にしました。